もしも昨日が選べたら〜人生の最期を問い直す〜
私はひときわどんよりと暗い中学生生活を過ごした。
誰の影響かと言われれば母方の祖母の影響である。
そしてもちろん自分自身のせいである。
序章
四国のど田舎で、ご近所さんの家と家は離れていたが、祖母の家は目と鼻の先にあった。
家には度々親族が集まり、まるでお祭りのようだった。
その中心で忙しく動き回っていた祖母を私はいつもみつめていた。
その賑やかな最中も、終わった後の静けさも私は好きだった。
祖母はとりわけ優しかった。
親や友達とくだらないことで喧嘩する度に私は半泣きで祖母の家に駆けこんだ。
祖母はどんなときでも必ず味方になってくれた。
中学生になり、祖母の家にめっきり行かなくなった。
理由は特段なく、振り返ってみればただの反抗期である。
ある日、思い立ったように祖母の家に顔を出し、ゲームセンターに行くためのお金を無心した挙句、捨て台詞を吐いた。
帰り際の祖母の表情は今でも忘れられない。
「なぁ小遣いちょうだい、2,000円でええわ」
「何につかうん?ばあちゃんも今そんなに余裕ないけん」
「別にええやろ…ゲーセンに行くだけや」
「ゲーセンもたまにはええけどお母さんも色々心配しとったで…」
「…うるさいなぁ、そんなんいちいち言われんでも分かっとるわ。お金くれんの!?くれんのならもうこんな所に用はないけん!」
こんなどうしようもないやりとりがあった日の夜、
祖母はくも膜下出血で倒れ、寝たきり状態になった。
可愛がった孫に暴言を吐かれたのが人生の最期だなんてあんまりだ。
祖母の人生を台無しにしたことぐらい救いようのない馬鹿でも分かる。
挙句の果てに妄想の世界に現実逃避した。
違う世界線の祖母は帰り際いつもニコニコ手を振ってくれていた。
その後、祖母は病院で何年も全身を管でがんじがらめにされていた。
「ただ生きているわけではない」のは頭では分かっていた。
けれども「ただ生きているだけ」のようにみえてしまった。
結局のところ肝心なことは何ひとつみえないままだった。
無意識の反射であろう祖母の身体の挙動に母親が一喜一憂している姿を目にするたびにやりきれない気持ちになった。
家族間では延命に関して喧々諤々の話し合いが何度もされていた。
仲が良かったかのように見えた母方の兄弟は日に日に離れていった。
祖父に至っては、話しかけてもうわの空のような返事しかせず、ただ毎日テレビを見てぼんやりと過ごすだけになってしまった。
祖母の家からは人の気配がしなくなり、さながらお通夜のようだった。
当の私はといえばひときわ往生際が悪く、祖母が束の間でも目を開いてくれた時に伝えたいことを何度も反芻していた。
それでも自分の身になるほど大した言葉がでないものだった。
それもひとしきり徒労に終わった後、何だか滑稽で何もかも馬鹿らしくなってしまった。
それなりに友達のような付き合いはあった。
もちろん近くに家族と呼べる人たちもいた。
それでも、ぼんやりともやがかかったような空虚感が消えなかった。
「川崎市地域福祉実態調査」に見る「終末期」
思いのほか暗い前置きが長くなってしまいましたが本題に入ります!
次の図をご覧ください。
これは人生の最終段階における医療について意思表示の書面や家族での話し合いの必要性についてのアンケート調査結果です。
「終末期」という言葉には、公的に明確な統一された定義はありません。
ここでは「命が終わりに近づいている段階」というイメージで捉えていただけますでしょうか。
私自身は「家族や医療者にまかせる」という価値観も尊重される必要があると思っており、実際にアンケート結果からも少数ではありますがそのような方がいることがわかります。
一方で、意思表示の書面が必要、もしくは家族での話し合いが必要と考えている方は88.4%(3.5% + 51.8% + 11.4% + 21.7%)で、約10人中9人もの方が意思や価値観を残したり共有することに肯定的であることが読み取れます。
反面、「意思表示の書面は必要であり、すでに作成している」(3.5%)、「意思表示の書面は作成していないが、家族で話し合っている」(11.4%)を合わせると14.9%しかなく、意思や価値観を残したいと思っていても実際にはそのようにできていない方が多いことがわかります。
実際に作成や話し合いができていない理由については、「自分や家族に限っては大丈夫だろう」という心理的防衛本能や、縁起を重んじる文化的背景があるのではないかと推測されます。
縁起ではないかもしれないけれど、話し合いたい。
では、どうすれば良いのでしょうか。
もしバナゲームで考える人生の最期
『もしバナゲーム』はご存知でしょうか?
千葉県にある亀田総合病院の緩和ケアの医師が作られたカードゲームです。
何年も前の話になりますが、思い切って打診したところ快諾をいただき、川崎市までお越しくださって市民の方に体験会を開いてくださいました。
『もしバナゲーム』とは?
「もしもあと余命が半年と言われたら、あなたはその時間をどう過ごしたいですか…?ご自身が最も大切だと思うカードを選んでください。」
というお題でスタートするゲームです。
体験会の所感
ご自身の終末期について、皆さん口ごもることなく語られていました。
カード(お題)があることで、随分と話しやすくなる印象を受けました。
それでも、自分の価値観をその場で言葉にすることは簡単なことではなく、
体験会にいらっしゃる方々は常日頃からしっかりと考えているのだと感じました。
他の方が発言している時は、皆さん頷き、自然と拍手をしていました。
途中で先生が
「お話したくない場合は無理せずに他の方のお話を聞いているだけで
大丈夫ですよ」とおっしゃっていたのが印象的でした。
初めてお会いする方々ばかりでしたが、お話を聞くだけでその方の人となりがおぼろげながら分かり、親しみを覚えました。
終了後は、会場全体が一体となったような不思議な感覚がありました。
中でも特に印象に残ったのは、「私はやりたいことはもう全てやりきって幸せな人生だったので、もう思い残すことはないと常々家族に伝えてあるんだよ」というお話です。
生前からそのような話を聞かされていると、残された側の喪失感はいくばくか和らぎ、また、先の迷いも生まれづらくなるのではないかと、朴訥な雰囲気の中に思いやりを感じました。
家族を再定義する
ふと疑問が浮かびました。
家族の基準とは何でしょうか?家族とは誰を指すのでしょうか?
国立社会保障・人口問題研究所によると、2033年には世帯平均人数が2人を割ると推計されており、独居の方の数も右肩上がりです。
例えば、次のような会話がよく聞かれます。
「夫を亡くしてからは一人暮らし、息子は長らく遠方に暮らしていてなかなか顔を合わす機会もない。頼れるのは家族しかいないと思っていたけれど…」
一見よくあるこのような会話には、孤独感、喪失感、依存心、心細さなど、
さまざまな思いが凝縮されています。
年々社会は多様化しています。
伝統的な家族観を引き続き大切にしながらも、必ずしも血縁関係がなくても、一緒に暮らしていなくても、無理のない範囲で気軽に話し合ったり、
助け合ったりできる関係が必要です。
昨今、従来の家族の枠を超えた、柔軟で新しいつながりが求められており、
ふと地域に目を向けると実はたくさんの素敵な居場所が生まれています。
拙い言葉は一見にしかず、ぜひ下記動画をクリックしてください♪
日常に潜む彩りを見過ごさないために
ただ生きるのではなく、よく生きること。
QOL(生活の質、人生の質)の文脈で聞くこの言葉。
私ももちろん、よく生きたいと願っていますが、正直なところその意味がいまいち掴めていません。
「まあ、生きてみるだけでも十分じゃない?」と自分自身を励ましながら過ごす毎日です。
それでも唯一心がけていることがあるとすれば、「当たり前の日常に意識を向けること」です。
正確には、どうすれば意識を向けられるようになるのか、日々試行錯誤しているという表現が適切かもしれません。
日常には、普段は気づかないようなところに彩りが潜んでいて、うっかり見過ごしてしまいがちだからです。
そうした中で大前提としているのは
「人生は一度きり、そして人はいつ死ぬかわからない」という事実です。
えっ、そんなの当たり前?
でも仮に不老不死だったらどうでしょう。
それは極端にしても自分は死なないと信じ込んでしまっている場合、日々の生活に感謝なんてできるでしょうか、私にはできません…
ジタバタしても、いつかは必ず終わりがやってくる人生の最期。
「まあ、あながち悪くない人生だったのかもね?」
どうせならそんなふうに軽口を叩ける自分でありたいものです。
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